暗黙知の形式知化の最前線:AI駆動経営がもたらす現場変革
博報堂DYホールディングス 執行役員CAIO 兼 Human-Centered AI Institute代表の森正弥が、業界をリードするトップ人材と語り合うシリーズ対談「Human-Centered AI Insights」。
今回はMagicx Consulting 執行役員 CAIOの中原柊とともに、松尾研究室発かつ京都大学発のAIスタートアップ エムニCEO 下野祐太氏を迎え、熟練層の暗黙知の形式知化の最前線について議論しました。
動くプロトタイプを示して初めて、真の暗黙知が見えてくる
- 森
- まずは下野さんのこれまでの取り組みや、エムニについて教えていただけますか。
- 下野
- 私は京都大学の出身で、大学在学中には株式会社松尾研究所に学生インターンとして約3年間、製造業のAIの社会実装に携わりました。エンジニア、PM、セールスというさまざまな役割を経験させていただき、製造業における現場のリアルを、実地ベースで学んできました。
エムニは製造業に特化し、自動車や化学、製薬をはじめとする幅広い領域のお客様に、AIのシステム開発やコンサルティングを提供する会社です。
事業の特徴としては、オーダーメイドAIの開発と、製造業の業務を効率化する「AIインタビュアー」や「AI特許ロケット」といったSaaSプロダクトの両軸で、フルカスタムからプラットフォーム活用まで柔軟に対応しています。

- 森
- 中原さんからも、現在の取り組みや業務領域について教えてください。
- 中原
- 私が所属する株式会社Magicx Consulting(2026年7月に株式会社ReD.より社名変更)は、博報堂DYホールディングス直下の組織として「AI」「事業戦略」「IT」の3つを重点領域に掲げ、クライアントの変革を支援しています。そうは申し上げましても、AIは「事業戦略」にも「IT」にも、そのほかほぼすべての領域での議論に欠かせないテーマとなっています。

- 森
- 下野さんはこれまで、どのような暗黙知を形式知化するプロジェクトに取り組んできたのでしょうか。
- 下野
- 熟練者と若手で最も差がつく「業務に潜むリスクの判断」や「プラントにおけるトラブル原因の瞬時な見極め(目利き・アタリ付け)」の形式知化です。同じゴールを目指していても、ベテランが何を優先してきたかによって蓄積される暗黙知は各社で異なります。
- 森
- 生成AI導入によって企業として、ビジネスとして期待する成果をあげるためには、「具体的なユースケースの設定」と「解くべき現場の課題抽出」が不可欠だと思います。そうしたなかで、下野さんが現場の課題を特定し、ユースケースへ落とし込むために意識されているポイントを教えてください。
- 下野
- まず前提として、当社は製造業に特化したAIソリューションを提供する方針を掲げています。その理由は、最初の段階から業界特有の商習慣や業務プロセス、現場で発生している課題やボトルネックを深く理解した上で、お客様と向き合うことが重要だと考えているためです。
製造現場におけるAI活用は、単なるツール導入ではなく、現場のノウハウや暗黙知を理解して、初めて価値を生み出します。実際のところ、議論だけではどうしても抽象的な「空中戦」になりがちです。そこで当社は、ヒアリング段階からプロトタイプを作成し、スクラップ&ビルド前提で検証を進めています。
実際のモノに触れていただくことで、マニュアルにはない情報の整合性や業務フローの例外パターンなど、これまで見えてこなかった暗黙知が初めて浮き彫りになってくるのです。
- 森
- 製造業は特に工場を中心とした現場主義が強く、外部の人間が信頼を得るには高いハードルがある業界だと思います。これまでの歩みの中で直面した苦労や、その壁を乗り越えるための工夫について伺わせてください。

- 下野
- お客様と同じ土俵に立ち、同じ言葉で課題を見出していくのが、信頼獲得の第一歩だと考えています。製造業はリスクに対して慎重で、AIの可能性を語る前にセキュリティや運用上の懸念が先行しがちだからこそ、早期に「実際に動くプロトタイプ」を提示し、具体的な将来像(to Be)を共有しながら解決すべき課題や要件を詰めていく手法をとっています。
AIでリスク検知を行う場合でも、単に結果を出力して終わりではありません。あくまで現場で働く人を主役に据え、日常の業務フローへどう組み込むかまで一緒に作り上げていくことで、私たちは信頼を築いています。
- 森
- 具体的な将来像 ( to Be ) のお話がありましたが、おっしゃるとおり、暗黙知の形式知化そのものは、何かを成し遂げるための「手段」であり、その先にある「目的」が必要です。主にどのようなものがあるのでしょうか?
- 下野
- やはり製造業全体では、人手不足は重大な課題であり、それに伴う業務効率化が多くは目的になります。例えば、図面チェック業務では、仕様や記載内容の差異を目視で追う莫大な手間とミスによる納品不備のリスクがありました。ここに画像認識AIを組み込み、チェック業務を自動化することで、「工数を何%削減できるか」という明確な目的を設定して推進しています。
“レジェンドの再現”ではなく、“組織の継続と成果”を目指す
- 中原
- とくに製造業のお客様との対話で多いのですが、高齢化や人材不足が進む中で、「この業務を担当できる人があと数人しかいない」という事業の継続性に関わるご相談を受けることがあります。その場合、暗黙知を形式知化する目的は、技術やノウハウを次世代へ継承し、事業や業務を継続できる体制を作ることにあります。
一方で製造業のお客様に限らず、サービス産業での暗黙知の課題はよく挙がりますが、特に暗黙知の“宝庫”と言える領域の一つが営業現場です。生成AIの登場でこれまで形式知化が困難とされていた「商談での思考プロセス」や「対話のノウハウ」も可視化できるようになりました。つまり、トップセールスの暗黙知を抽出して、チーム全体で活用することが現実的になってきたわけです。

- 森
- ここまでテクノロジーやデジタルが普及した現代においても暗黙知が残っているのは、その業務がそれだけ「深い」からだと思います。深さゆえに暗黙知と向き合うことの難しさをどう捉えていますか?
- 下野
- 暗黙知の定義自体が曖昧な点です。製造業のお客様からは、「現場は暗黙知で支えられていて、熟練者が3年後に退職すると技術継承が難しくなる」といったご相談をよくいただきます。しかし、「暗黙知とは具体的に何ですか」とお聞きすると、明確に答えらないことが多く見られます。熟練者一人の知識や判断基準は無数に存在し、対象がほぼ無限であるためです。まずは「何を達成したいのか」という目的を定め、そこから逆算して必要な暗黙知を一つひとつ特定していく作業が重要です。このプロセスは非常に手間がかかりますが、そこに寄り添いながら伴走できるのが、私たちの強みだと考えています。
- 森
- 以前、日立製作所の安立さん、Ballistaの中川さんとの鼎談では、暗黙知には「引き出し」「型」「つながり」「発想」の4タイプがあるという話をさせていただきました。また、暗黙知は単なる知識を含んだ、その人独自の判断基準をつくり出す「暗黙考」なのではという議論も行いました。
加えて大事なのは、「正常系(日常業務)」と「異常系(危機対応)」を切り分けて考えることです。経営層は異常系に注目しがちですが、現場では日常業務だけで手一杯ということも少なくありません。
こうしたギャップを埋めるためにも、暗黙知のタイプを整理し、明確な枠組みを用意することで、暗黙知という言葉をまだうまく定義できていない方々とも、議論を進めやすくなるのではないかと考えています。
- 中原
- 以前、優秀なデザイナーの暗黙知を再現しようとして失敗した経験があります。過去のレビューを徹底的に分析して再現を目指したものの、最後に行き着いていたのは個人の「感性」や「嗜好」だったのです。それが必ずしも組織で共有すべき知見とは言えないと気づいた時には、多大な労力をかけてしまっておりました
当初は「個人の判断をどこまで再現できたか」を目指していましたが、本来見るべきは「その仕組みで組織全体の成果が上がったか」だったんですね。再現性の追求自体が目的化すると、本来のビジネス成果とズレが生じてしまいます。
この苦い経験から、暗黙知の可視化においては「何を取り出すか」だけでなく、「何のために取り出し、どう活用するのか」という出口まで見据えた全体設計が不可欠だと痛感しています。
- 下野
- 現場では、トップ営業や熟練者といった“レジェンド”を神格化し、「あの人のやり方を再現できればすべて解決する」と考えがちですが、それは本質ではなく、本来立ち返るべきは「その業務の本質的な目的は何か」という点です。レジェンドが引退したとしても、組織の業務自体は回り続けます。「個人の再現」に固執せず、「業務を継続し、成果を出し続けるために本当に必要な要素は何か」という視点で暗黙知を整理していくことが重要です。まず、組織として実現したい将来像があり、その手前に立ちはだかる壁として暗黙知が存在するという構造を理解すること。
つまり、暗黙知の可視化は乗り越えるべき課題であり、それ自体がゴールそのものではないというわけですね。
8割の「土台」はAIで自動化し、残り2割の「ディテール」に人間が切り込む
- 森
- 現場のキーマンにプロジェクトの意義を正しく理解してもらい、信頼を得るために留意されているポイントは何でしょうか?
- 下野
- 熟練者の方々に共感することが大切だと考えています。その人やこれまでの会社の「歴史」への共感という姿勢です。「その道一筋40年」といった年月をかけて培われた経験には、上辺だけでは捉えきれない深い価値があります。泥臭いアプローチですが、実際の業務フローを聞き取り、どんな思考で判断しているのか、過去にどんな失敗を経験したのかなど、自分の身に染み込ませながら丁寧にヒアリングしていくことが何より大切です。
一方で、変にへりくだる必要はなく、「テクノロジーのプロ」として対当に向き合い、プロトタイプを通じて「現場がどう進化するか」の未来像を提示して共感を得るようにしています。

- 中原
- 今のお話にすごく共感できる点が多くて、熟練者の方のこだわりに対し、「どれだけリスペクトを持っているかが大切だと感じています。
例えば注意したいのが、少し話を聞いただけで「要はこういうことですよね」とまとめてしまうことです。ハイパフォーマンスな人でも、業務の8割くらいは普通の人と同じことをしていると言われています。差がつくのは、残り2割の「ちょっとした判断や工夫」で、そこの細かなディテールにこそ、本質的な暗黙知が宿っているのです。
だからこそ、「なぜここでその判断をしたのか」「どうしてそのデータを見たのか」といったディテールを一つひとつ掘り下げていくアプローチが肝になるでしょう。
- 森
- 「暗黙知はドキュメントとドキュメントの間にある」とおっしゃる方もいます。言語化された情報よりも行間にある思考プロセスや意思決定に、さらには目指すべき業務の品質と既存プロセスの現実との間のギャップ、そういうディテールに、確かに本質が隠れています。
- 中原
- 「共創」という観点で考えると、組織の外部にいる人間や、生成AIのような存在が果たす役割は意外と大きいと思っています。
「背中を見て学べ」という自社内だけでは暗黙知の言語化は困難ですが、外部の人材や生成AIはノーコンテクストで「それってどういうことですか?」と問いかけられます。さらに、究極の組織外と言えば、今の生成AIがその立ち位置にいると思います。人間は経験を重ねるほど「言語化できないけれど何となく分かる」という暗黙知化に陥りがちですが、生成AIの活用によって暗黙知を言葉として引き出すことが可能になりました。そう考えると、これからの企業に必要なのは、「会社の中で暗黙知を棚卸し続けられる仕組みを作ること」なのではないでしょうか。
- 森
- その仕組みを構築することは、まさにSECIモデルを実践に落とし込んだ取り組みと言えますね。
現場で日々生まれていく会話やドキュメント、それらの間のギャップ、ディテールという暗黙知の源泉をきちんとおさえた上で、外部やAIの共創による棚卸しの仕組みを構築していくということですね。博報堂DYグループでも、すでに何社かでこうした新しい挑戦が始まっています。これまでは外部のコンサルタントがスポットで入り、暗黙知の型化を行うのが一般的でした。しかし、それをシステムやAIで実現できれば、リアルタイムで継続的に支援を続けられるようになるでしょう。

- 下野
- 「暗黙知は無限にあるもの」という実感があって、全部を取得したいけれど、現実的には難しいという課題があると思っています。そこで大切なのは、「土台づくり」と「深掘り」を分けて考えることです。業務の8割を占めるベースが分からないと、本当に価値のある残り2割がどこにあるのか判断できませんよね。
例えば、普段のミーティングで交わされる会話から、AIが行間や文脈を読み取って自動で構造化する。人間はその文脈を踏まえた上で、残りの2割だけ選択的に聞きに行く。こうした構造を作ることができれば、現場に負荷をかけず成果を最大化できます。
「知財×AI」で思考のPDCAを高速化するAI駆動経営へ
- 森
- 製造業などの開発現場では、知財や特許周りの膨大なリサーチをAIが担う「知財×AI」の活用も進んでいると伺っています。こうした中で、下野さんが提唱される「AI駆動経営」の姿について教えてください。
- 下野
- 知財業務とLLMは非常に相性が良く、その理由は大きく2つあります。1つ目は、特許情報の多くが公開情報で扱いやすく、明確なフォーマットや記述ルールが存在するため、LLMの解析に非常に適していること。2つ目は、数千件規模の特許テキストを一件ずつ読み解く特許侵害調査など、繰り返し作業が存在することです。
このような膨大なテキスト解析は、まさにLLMが最も真価を発揮する領域です。当社では、「知財×LLM」に特化したサービスをパッケージ化して提供していますが、従来2~3ヶ月かかっていたIPランドスケープ(知財を起点にビジネス環境や技術トレンドを統合して分析すること)が、LLM活用で同等のクオリティを1~2時間で完了できるようになったのです。
分析結果から得た示唆をもとに、新たな仮説を立て、別の切り口で再び分析する。こうした思考のPDCAサイクルを短期間で何度も繰り返せるのが、AI活用の本質とも言えます。その先で、製造業のお客様から世界を変えるような製品や技術が生まれるのが、私たちの目指す理想の姿です。

- 森
- SECIモデルも暗黙知を形式知化するサイクルを説いていますが、下野さんが実践されるPDCAとの間には重なる部分や、明確に異なるとお考えの点があれば教えてください。
- 下野
- 従来の知財業務は「Do」に時間がかかりすぎ「Check」や「Act」まで十分に進みませんでした。分析が数時間で終われば、浮いた時間で仮説検証や戦略策定(Check/Act)を何度も回せます。分析レポートの作成の目的化を防ぎ、事業戦略や商品戦略に反映する本質的なPDCAサイクルが実現できると考えています。
- 中原
- これまで知財という一次情報にアクセス・分析できたのは資金やリソースに余裕のある一部企業だけでしたが、AIによって「Do」のハードルが下がれば、今まで知財を十分に活用しきれていなかった幅広い産業へと裾野が広がっていくはずです。
- 下野
- 公開されている特許情報(パブリック)と、自社の顧客アンケートなど(プライベート)の一次情報をLLMでスクリーニングして掛け合わせる。これが最も効果的な新商品・サービスの発想法です。AIと人間が対当なペアリング関係になることで、人間同士では遠慮してしまう場面でも本音や発想を引き出せる可能性を感じています。
- 中原
- 一次情報というキーワードは、今年度に入ってお客様と話す機会が非常に増えました。ですが、実は「どうやって質の高い一次情報を取ってくるか」というノウハウ自体が暗黙知化され、担当者の経験や勘に依存しているケースもよくあるんですね。
- 森
- 将来的に「AIとのペアリング」によって現場の思考や発想をさらに広げていくアプローチは可能なのではないでしょうか?
- 下野
- AIと人間が“対等”な関係になることで、新しく引き出せるものは確実にあると思っています。人間同士ではどうしても遠慮が働いてしまう場面でも、AIが相手であれば気兼ねなく対話でき、本音を引き出せる可能性があるからです。「どうすれば人が自然に話したくなるのか」といった感覚的な部分にどう働きかけるかが、すごく大事な視点だと感じています。
- 中原
- 暗黙知の絡む仕事では、人が大事にしてきた矜持について結構話が及ぶんですよ。暗黙知の可視化は経済合理性だけでなく、働く人が大切にしてきた「こだわり」や「矜持」に触れる作業です。単なる業務フローの最適化にとどまらず、働く人の熱量や意欲までを含めて企業経営を変革していく姿勢を、私たちは何よりも大切にしていきたいですね。

※肩書は取材当時のものです
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下野 祐太株式会社エムニ共同創業者/代表取締役CEO京都大学大学院エネルギー科学研究科応用科学専攻卒。(株)松尾研究所にて製造業向けのAI社会実装に3年間従事。IoTセンサーを活用した異常検知及び原因特定、外観検査の自動化、生産計画の最適化にPMとして取り組む。Preferred Networks・DeNA・Recruit等複数大手企業にてプロジェクト経験多数。ビジネス面では松尾研にてコンサル営業に1年間従事。
株式会社エムニでは代表として経営を行う傍ら、自ら営業活動やデモ開発等のコーディング・マネージメント等幅広く担う。松尾研起業クエスト1期生。「Forbes JAPAN 30 UNDER 30 2025」世界を変える30歳未満30人としSCIENCE&SOCIAL部門に選出。
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株式会社博報堂DYホールディングス執行役員Chief AI Officer/
Human-Centered AI Institute代表/人間中心のAIコンソーシアム共同代表1998年、慶應義塾大学経済学部卒業。外資系コンサルティング会社、インターネット企業を経て、グローバルプロフェッショナルファームにてAIおよび先端技術を活用した企業支援、産業支援に従事。
内閣府AI戦略専門調査会委員、日本ディープラーニング協会顧問、慶應義塾大学 xDignity (クロスディグニティ)センター アドバイザリーボードメンバー。
著訳書に『ウェブ大変化パワーシフトの始まり』(近代セールス社)、『グローバルAI活用企業動向調査 第5版』(共訳、デロイトトーマツ社)、『信頼できるAIへのアプローチ』(監訳、共立出版)など多数。
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株式会社Magicx consulting 執行役員/Chief AI Officer大手コンサルティングファーム、SaaSスタートアップを経て現職。テクノロジーの進化と生活者・市場の変化を見据えた課題解決を得意とし、メディア・通信・エネルギー業界等でCX改革や事業戦略に携わる。現在は、AI活用や新規事業を支援するコンサルティング事業の立ち上げをリードし、講演など発信活動にも注力。共著に『DXの真髄に迫る』(東洋経済新報社)、JAAA REPORTS『組織におけるAI活用術』連載中。

